原広司と利休

原広司氏の広島市立基町高校を訪れた。といっても玄関部分のピロティーまでしか行けなかったのだが…それでもこのピロティーがなんとも言えず心地いい。広島城と道路を挟んで平行に走り、高さは2層吹き抜けで8mくらい。白っぽく光を反射するコンクリートの太い柱が神殿のように力強く並ぶ。

 

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道路から奥の方を見上げると吹き抜けが4階まで続いていて、さらにその上にはトップライトがある。3、4階は教室などが吹き抜けを挟んで並び、生徒たちの日常が吹き抜けやピロティーを介して都市、歴史とつながっていく。各部のスケールにもその操作が現われていて、立面は多様な変化を表現する、原さんらしいものになっていた。

 

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多彩なスケールで地形を作りながら、それを見下ろす場所、貫通する空中経路なんかは京都駅や梅田スカイビルにも共通していて、地形や地理的状況、それらを俯瞰することなど様々な階層を含ませることでひとつの建築に都市を内包させようとしているのだろうか。建築の中に都市があり、それがさらに周囲の、実在の都市と接触してゆく。

 

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*1

 

そしてそれはひとつの建物という小さな物に都市という大きなものを埋め込むという行為で、千利休が自身の茶室において秀吉という大きな世界を飲み込んでしまおうと試みたことに似ているような気がする。

 

藤森照信氏の著作「茶室学」によると、千利休の茶室「待庵」はその中に世界そのものを閉じ込め対峙しようとしたものだそうで、小さな躙り口から秀吉という時の権力者が身を屈めて入ってくることは、ゴムボールに空いた穴から中身を引っ張り出して裏返すように世俗や富、権力を取り込むことになる。そうして入った空間は外と切り離すように閉じられていて、かつ利休と秀吉が対等に向き合うための二畳の広さしか持っていない。そうすることで利休は世界と対峙するものとして茶に力を与えようとした。

 

利休の待庵と対応するものが秀吉という力の象徴なら、基町高校に対応するのは広島という都市そのものだろう。

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*2

 

茶室の躙り口が壺中天効果の小さな穴なら、基町高校のピロティーこそがまさしくそうで、そこから校内に入ることで内側にある「都市の形をしたもの」が本物の街路のように働き出す。だが待庵と違うのは、反転させた都市を閉じ込めはしないということ。学校の周囲にある都市と内部にある都市は同時に存在してさらに関係を持とうとする。学校にとっての主役はもちろんそこに通う生徒たちで、彼らは小さな社会と向き合いながら大きな社会ともリンクする。閉じないことで、学校は学校として完結しない、都市の中の都市、社会の中の社会、つまり学校そのものであり続ける。

 

と、これだけ好き放題言っといてなんなんですが、今回僕は外観とピロティーまでしか見れてないので全体で見るともっと違ったメッセージがあるかもしれないし、むしろ全く見当違いのことを言ってるかもしれないんですが…ただ今後もし中の方まで見れる機会があるなら是非見に行きたいと思えるかっこいい建築でした。

 

*1:京都駅は人工的な谷であり、京都という都市の門でもある。

*2:南に広島城、西に基町アパートが面する 

日本一有名な廃墟

  • 広島の原爆ドームは、文字通り原爆が炸裂した瞬間を現していて、結果としてものすごく力を持った存在になっている。少なくとも僕にはそう見えた。丹下健三のピースセンターや公園、モニュメントが作る軸線は、広島という都市を支えながら同時にひとつの廃墟に収束していく。

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原爆ドームは日本一有名な廃墟だと言っても差し支えないだろう。小中高の、恐らくどの社会の教科書にも載ってるし、戦後70年の今でも年に数回はテレビや新聞で見てる気がする。しかも僕たちは、その形だけではなくそれがどのようにして生まれた(建物が建てられたことではなく今の姿になったこと)のかも知っている。すると、いざ現地を訪れて実物を目の当たりにするとその知識はひとりでに浮かび上がってくる。1945年8月6日のまさにその時(と僕らがイメージする映像)をその建物の中に閉じ込めていて、目にした瞬間にそれは時間を超えた存在になる。廃墟は、時間の流れとは無関係に存在できるのだ。

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原爆ドームはもともと広島県物産陳列館という名前で、経済の発展を背景に製品開発や販路拡大の拠点として作られた。ところが現在はそんな使われ方は一切されていない。多くの場合建物を考える時は、目的があって、それを達成するために部分が作られていく。例えば明るい部屋のために大きな窓がつけられたりとか。けれどなにかのきっかけでその目的が失われると、そこにはただ建物だけが残る。光をたくさん採るための大きな窓ではなくて、ただ大きな窓がそこにあるだけだ。人に使われることを目的に生まれたものが人に使われなくなる。その意味で廃墟は何かのための建物ではない、建築でしかない建築になる。本来建築にとっての主体は人間であるが、その人間がただ見ることでしかその建築に関われなくなる。建築と人の力関係は逆転する。

 

ルイス・カーンの言葉に「建物の用途が消費され、廃墟になるとき、原初の驚異がふたたび甦ります。廃墟はからみつく、つる草を気持ちよく受け入れ、ふたたび精神の高揚を取り戻し、苦役から解放されます。」というものがある。丹下はその廃墟の力をもって広島をよみがえらせようとしたに違いない。作られた意図とその使われ方にずれが生じる時、建築は意味を失う。その無意味性は時間の流れから建築を守り、悠久を与えるのだろう。

ギャラ間からの警告

 現在ギャラリー間で開催されている建築展「アジアの日常から:変容する世界での可能性を求めて」に先立って行われたシンポジウムに参加したので、その感想を少し。展覧会ではタイ、シンガポールベトナム、日本、中国から1組ずつ、計5組の建築家がそれぞれの作品を、作品のみでなく土地や空気ごと表現しようと試みられている。シンポジウムを通して感じたことは、この展覧会は単に“未来”とか“希望”のような明るいワードを示すものではなく、むしろ日本人に対する“警告”を訴えるものではないのかということだ。

 5組の建築家に対する個人的な解釈をまず述べると、タイのChatpong CHUENRUDEEMOLはバンコクにおける美醜、特に誰にも見向きもされないようなものに目を向け、それを“受け継ぐ”ことで都市に対する親和性を持たせながら閉じていたものを開いていく。つまり恣意性を持たないリサーチによって、今あるもので建築と都市との関係性を再構築しようとする。シンガポールのLING Haoは都市化の陰に隠れた、本来身近であった人間と自然との関係を建築を媒介に繋ぎ、それによって日々の暮らしと建築と都市と自然を結ぶ豊かな生活を考えている。ベトナムのVO Trong Nghiaは都市にあふれた身近な問題を地球規模で捉え、その上でひとつの建築に何が出来るか、という題と切実に向き合っている。日本のo+hは経験という、個人の感覚に基づくものを足がかりに建築を組み立てようとすることで建築と人々の関係を考察している。中国大理のYang CHAOは昔から続く手法や慣習を意味的に解釈し、選択的に判断することで建築の普遍性を問おうとしている。

 国家規模、あるいは地球規模で起こっている大きな問題を如何に自分に身近なレベルにまで落とし込めるか。逆に言うと身の回りのことからどこまで射程を拡げて考えられるか。物事をどう見るかということはそれとどう関わっていくのかということでもある。今回の出品作の内、日本以外の4カ国の作品からは近年の情報や技術の急速な進歩を背景に国際性と土着性、近景と遠景を併せ持ったような視野の広さを感じた。都市と建築が相互に影響し合うことを考えると、今後彼らの都市はどんどん個性的な発展を遂げてゆくだろう。なら日本はどうか。ひとつの建築が社会や、世界とつながっていくような意識はあるのか、自分たちがどのような立ち位置から物を見て、関わっていくのか。現在を批評的に捉えて初めて将来を模索することが出来ると考えれば、飛躍的に、かつ着実に発展していく近隣諸国から学ぶことは非常に多い。

 

 

伊根町その2 3つの海景

前回の続き、というか番外編

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上の航空写真は今回訪れた伊根町を写したもの。舟屋は湾を囲むように並んでおり、それぞれの住居が海とまっすぐ向かい合うために家と家の間には角度をもった隙間が生じる。そしてその隙間からもわずかに海が覗く。

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舟屋内部から見る海と隙間からのぞく海とは有意識と無意識の対比を成す。つまり「向き合おう」という意思から作られたものと偶然、というか結果的に見えてしまったものとに分けて考えることが出来る。

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それを示すように屋内は船や釣り具、工具などの海に向かうための道具が、屋外には自転車やゴミ箱などの海と関連の無い、どちらかといえば裏のものが置かれていることが多かった。

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表としての海と裏としての海が交互に連続して、かつ海の見え方(視点の絞り方)も次々に変化してゆく。この家と家の隙間というのは直行グリッドを基にしている京都市ではあまり見られないため、非常に興味深く思えた。

 

中央の湾を考えてみるとそこは漁に出る場で、また帰ってくる場でもある。漁師が家と向き合うタイミングというのは行く時ではなく帰ってくる時で、ベランダに干された洗濯物や窓からのぞく居間の様子など、家であるという象徴が湾から見えることでオンとオフを切り替える。その瞬間に仕事が終わり、家へと帰るのではないだろうか。そのために海に面しているのは、生活ののぞく裏でなければならないのだろう。観光客が海越しに、伊根町のイメージとして捉えるのは住民の裏であり、裏から作られる街並がこの町を特徴づけているのではないだろうか。

 

伊根町


 先日、京都府北部にある伊根町を訪れた。漁業の町として知られるその町は人口2000人に対しておよそ200軒の舟屋と呼ばれる伝統住居が軒を連ねることでも有名だそうで。

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舟屋がどんなものか簡単に説明すると、一階に海をそのまま引き込み船を停めるスペースを持ち、二階部分は普通の住居として使う職住一体型の建物で、

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その舟屋の特徴的な伝統住居としての価値が評価を受け、2005年には舟屋の並ぶ街並が重要伝統的建造物群保存地区に指定された。そのためか観光客も多く、遊覧船や舟屋を改装したカフェなどもいくつか見られた。

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舟屋が並ぶ景色は確かにきれいだし、そこに生活の様子が見えると想像がふくらみ楽しくなってくる。観光客のために新しく何かをするのではなくて、普段通りの生活に少し触れさせてもらえることに価値がある。

 

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舟屋や町家といった伝統的な住居は、その土地の形状や環境、文化や習慣などの要素に適応し、進化してきた機能的形態といえる。技術の発展や更新が起こるたびに動物が進化するように少しずつ形を変え、受け継がれてきた。

しかし建物は次第に変化のスピードに追いつけなくなり、やがてその形態は時代遅れな、使いにくいものとなってしまう。ハードとしての建築と、ソフトとしての生活が分離してしまうのだ。使いにくくなってしまった建物は取り壊され、新しい快適な家に更新されてしまうのが世の常だが、ある時それ自体に価値が見出され保存しようとする動きが現れる。

 

ただ、簡単に建物を保存するといっても取り巻く状況はかつてと大きく変わっていて、建物にあわせた生活は不便な、非機能的なものになってしまう。ハードに引っ張られることでソフトである生活も先へ進みにくくなるという悪循環が生じるのだ。この場合建築と生活は一体のものなので、建物や街並みを保存するということはそこでの生活をも守るということに他ならないが、そこには都市と田舎の格差など多くの壁が待ち構えている。追いつけないほど速くなってしまった技術の進歩と、保存という言葉に囚われかつてのように更新できなくなってしまった建築が、その地域を停滞させてしまったら元も子もない。

 

使いづらくなった建物は、その意味を書き換えられることで生きながらえている。それも一種の進化で、伝統住居を改装したカフェなどがその良い例だ。そしてそのターゲットは他所から来た観光客であることが常である。青木淳でいうところの「原っぱ的」な魅力がそこにはあり、伝統的な街並みは観光地化と相性が良い。

 

だが一方で気になる部分もある。建物が生活とともに存在していたかつての状況は、ソフトとハードが一体となった無駄の無い、洗練された建築を生み出していた。住宅という機能の場合、見られることはそれほど意識されておらず、少なくとも見られることが目的とはなっていなかったはずだ。ところがその場所が観光地化して他所からの視点が入り込んでくると、そこには新たに見られることを前提とした、ガワだけを真似たような建築がつくられてしまうことが多々ある。そしてそれは途端にその場の空気を変えてしまう。

 

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建物と生活の一致がもたらした美しい街並みのなかで成立原理の違うそれは異質なものであり、全体の調和を乱しかねないのだ。ここで問題にしているのは見られる前提の建築そのものではなく、地域の文脈に対して答えていないということにある。都市部にある商業建築は見られることが強く意識されているし、内外の不一致がデメリットに直結する訳ではない。観光地化は有効な手段ではあるが、常に危険を孕んでいるともいえる。

 

伝統というものについて考えると、京都の和傘職人の言葉が思い起こされる。「伝統とは変わり続けることで受け継がれてゆく。」伝統を残すということは物そのものを残すことではない。環境の変化に伴う形態の更新に、変わり続けることに価値を見出すためにはどうしたらいいかを考えなければ。