伊根町


 先日、京都府北部にある伊根町を訪れた。漁業の町として知られるその町は人口2000人に対しておよそ200軒の舟屋と呼ばれる伝統住居が軒を連ねることでも有名だそうで。

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舟屋がどんなものか簡単に説明すると、一階に海をそのまま引き込み船を停めるスペースを持ち、二階部分は普通の住居として使う職住一体型の建物で、

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その舟屋の特徴的な伝統住居としての価値が評価を受け、2005年には舟屋の並ぶ街並が重要伝統的建造物群保存地区に指定された。そのためか観光客も多く、遊覧船や舟屋を改装したカフェなどもいくつか見られた。

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舟屋が並ぶ景色は確かにきれいだし、そこに生活の様子が見えると想像がふくらみ楽しくなってくる。観光客のために新しく何かをするのではなくて、普段通りの生活に少し触れさせてもらえることに価値がある。

 

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舟屋や町家といった伝統的な住居は、その土地の形状や環境、文化や習慣などの要素に適応し、進化してきた機能的形態といえる。技術の発展や更新が起こるたびに動物が進化するように少しずつ形を変え、受け継がれてきた。

しかし建物は次第に変化のスピードに追いつけなくなり、やがてその形態は時代遅れな、使いにくいものとなってしまう。ハードとしての建築と、ソフトとしての生活が分離してしまうのだ。使いにくくなってしまった建物は取り壊され、新しい快適な家に更新されてしまうのが世の常だが、ある時それ自体に価値が見出され保存しようとする動きが現れる。

 

ただ、簡単に建物を保存するといっても取り巻く状況はかつてと大きく変わっていて、建物にあわせた生活は不便な、非機能的なものになってしまう。ハードに引っ張られることでソフトである生活も先へ進みにくくなるという悪循環が生じるのだ。この場合建築と生活は一体のものなので、建物や街並みを保存するということはそこでの生活をも守るということに他ならないが、そこには都市と田舎の格差など多くの壁が待ち構えている。追いつけないほど速くなってしまった技術の進歩と、保存という言葉に囚われかつてのように更新できなくなってしまった建築が、その地域を停滞させてしまったら元も子もない。

 

使いづらくなった建物は、その意味を書き換えられることで生きながらえている。それも一種の進化で、伝統住居を改装したカフェなどがその良い例だ。そしてそのターゲットは他所から来た観光客であることが常である。青木淳でいうところの「原っぱ的」な魅力がそこにはあり、伝統的な街並みは観光地化と相性が良い。

 

だが一方で気になる部分もある。建物が生活とともに存在していたかつての状況は、ソフトとハードが一体となった無駄の無い、洗練された建築を生み出していた。住宅という機能の場合、見られることはそれほど意識されておらず、少なくとも見られることが目的とはなっていなかったはずだ。ところがその場所が観光地化して他所からの視点が入り込んでくると、そこには新たに見られることを前提とした、ガワだけを真似たような建築がつくられてしまうことが多々ある。そしてそれは途端にその場の空気を変えてしまう。

 

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建物と生活の一致がもたらした美しい街並みのなかで成立原理の違うそれは異質なものであり、全体の調和を乱しかねないのだ。ここで問題にしているのは見られる前提の建築そのものではなく、地域の文脈に対して答えていないということにある。都市部にある商業建築は見られることが強く意識されているし、内外の不一致がデメリットに直結する訳ではない。観光地化は有効な手段ではあるが、常に危険を孕んでいるともいえる。

 

伝統というものについて考えると、京都の和傘職人の言葉が思い起こされる。「伝統とは変わり続けることで受け継がれてゆく。」伝統を残すということは物そのものを残すことではない。環境の変化に伴う形態の更新に、変わり続けることに価値を見出すためにはどうしたらいいかを考えなければ。